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2004年 05月 08日
唯物論の歴史は3000年を超えていて、現在主流となっているほとんどあらゆる宗教の歴史よりも長い。
"例えば、あなたの目の前にパソコンがあるとしよう。あなたがそのパソコンの存在を知覚することを止めると、パソコンは消滅するだろうか?" ほとんどの人はこの問いに否を返す。物は誰かに知覚されなくてもそこに存在する、つまり物の存在は観察者の知覚に依存しない――これが唯物論だ。もちろん、マルクスの唯物論も例外ではない。 そして人間のこの歴史の初期におけるほぼあらゆる宗教は唯物論的だ。例えば、日本の古い神話もそうだ。黄泉の国もまた物質としての独立存在だ。血の継承を重要視するのもまた唯物論的な考えであり、インドのサイババやチベットのダライ・ラマなどの地位継承とは好対照を成している。 ユダヤ教もキリスト教も唯物論的であり、確かに創造主は存在するものの、それには姿形があり、しかも、創造主が想像した産物はその後の創造主の介入がなくとも存続する。キリスト教をベースとした中世スコラ哲学でも、例えば、個々の人間の存在は一般イデアに依存せず、それ自体として存在し、私たちの心にある人間についての概念は"唯の名前に過ぎない"という唯名論としても表現されている。 イスラム教ではアッラーが宇宙の全ての法則を常に支えていると考えるため、かなり唯物論からはなれている。とはいえ、アッラーもまた自らが作り出した法則に支配される物であり、唯物論を完全否定しているわけではない。 唯物論から完全に脱却した考えにたどり着いたのは、古くは、ギリシアのプロティノス、中国の老子だろう。 プロティノス:"一者は有を超越し、無を超越し、有無を超越する超越をも超越する。しかし、このように描写することもまた一者を局所的に限定するから、まったく正しいわけではない。 かくして一者は実体にあらず、量にあらす、叡智にあらず、霊魂にあらず、動きつつあるものでもなく、さりとて静止しつつあるものでもなく、場所の中になく、時間の中になく、ただ独絶自全の単相者というもまだ足らず、むしろ全ての形相に先立つ無相者で、動に先立ち、静に先立つ。" 老子:"道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべくは常の名に非ず。名無きは天地の始め、名有るは万有の母。故に常無を以ってその妙を見んと欲し、常有を以ってその徼を観んと欲す。" 同じことについて語りながら、理知的なプロティノスと直感的な老子は東西の文化の違いを感じさせ、なかなか面白い。 私もプロティノスや老子と同じく、徹底的な唯心論者だ。 私:"最初に虚無がありました。時間を超越する虚無について「ありました」とはやや不適切な表現ですが、我々の視点からはそのように見えます。 虚無に無限の創造の可能性が秘められていたことは明らかです。虚無から無限の創造が生じたからです。"
by Leoneed_of_Podol
| 2004-05-08 08:32
| 思想
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